指を折る殿様
歌舞伎に、指を折って数えるだけの見せ場がある。
『松浦の太鼓』の二幕目。平戸藩主・松浦鎮信が句会の席で、隣の屋敷から響いてくる太鼓の音に気づく。数える。山鹿流の陣太鼓だと聞き分ける。それは、赤穂の浪士たちがいま討ち入ったという意味だ。
役者は座ったまま、指を折る。それだけの場面が、この芝居のすべてを支えている。
私はこの芝居を3回観ている。
- 2016年7月31日 厚木市文化会館(松竹大歌舞伎 東コース巡業・千穐楽)/松浦鎮信=染五郎(現・十代目松本幸四郎)
- 2017年1月22日 歌舞伎座 壽初春大歌舞伎 夜の部/同じく染五郎
- 2019年9月21日 歌舞伎座 秀山祭九月大歌舞伎 夜の部/松浦鎮信=歌六
最後の1回は「三世中村歌六 百回忌追善狂言」だった。この役をあたり役にしたのが三世歌六で、それを初代中村吉右衛門が継いで「秀山十種」に加えた。いまの歌六が勤めることには、そういう継承の意味がある。
正直に言うと、はじめて観たときはよくわからなかった。筋も、どこを観ればいいのかも、つかめていない。面白さも、そこまでは感じなかった。
2回目は歌舞伎座で、同じ染五郎の鎮信だった。役者も役も同じなのに、劇場が変わると見え方が変わる。2回目のほうが、はっきり面白かった。
ようやく腑に落ちたのは3回目、歌六の鎮信を観たときだ。そのころには筋も見どころも自分のなかで固まっていて、そこへベテランの味が乗ってきた。観方ができあがったところに、それに応える芸が来た。 順番として、そういうことだったのだと思う。
そうして観えるようになると、太鼓を数える場面がいちばん好きになっていた。あの殿様、楽しそうに数えるのだ。 討入りを察して緊張が走るはずの場面なのに、うれしさが隠せていない。指を折るたびに、待っていたものがようやく来た、という顔をする。
『仮名手本忠臣蔵』は国立劇場の3ヶ月通しで、討入りまで観た。だから『松浦の太鼓』が忠臣蔵の外伝としてつながる瞬間には、位置づけがわかるぶん、ぐっとくる。
(もっとも、討入りという出来事そのものに素直に感動できるかというと、それはまた別の話だ。四十七人が徒党を組んで人を斬りに行く話ではある。芝居として好きなことと、その行いに納得できるかどうかは、私のなかでは別のままになっている。)
そしてもうひとつ、この演目を「大好き」にさせた理由がある。舞台が、自分の住んでいる場所だった。 それは最後に書く。
この芝居は「隣」の一点で成り立っている
筋はこうだ。
討入りの前日、雪の両国橋。俳諧の宗匠・宝井其角が、落ちぶれて煤竹売りになった元赤穂藩士・大高源吾と出くわす。其角が「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠みかけると、源吾は「明日待たるゝその宝船」と返して去っていく。
(先に断っておくと、この出会いも史実ではない。あとで書く)
翌日の夜。松浦鎮信の屋敷では句会が開かれている。鎮信は山鹿素行に学んだ身として赤穂の浪士たちに肩入れしてきたのに、いっこうに討入りの気配がない。それに苛立っている。其角が昨日の付句を披露する。そこへ、隣の屋敷から太鼓が鳴る。
つまりこの芝居は、「松浦の屋敷が吉良の屋敷の隣にある」という一点の上に組み立てられている。隣でなければ太鼓は聞こえない。聞こえなければ、指を折る場面が成立しない。
じゃあ、その隣家はどこにあったのか。
両国橋を渡る
序幕の舞台は両国橋だ。ここから歩き始めるのが自然だろう。
ただし、最初に断っておくことがある。いま渡っている橋は、其角と源吾が立った橋ではない。
江戸時代の両国橋は、いまの橋より下流に架かっていた。明治37年(1904年)に鉄橋へ架け替えられたとき約50メートル上流へ移り、昭和7年(1932年)に現在の橋になったとき、さらに約20メートル上流へ動いている。数字は資料によって幅があるので合算はしないでおくが、方向ははっきりしている。江戸の橋は、いまより下流だ。
きっかけは事故だった。明治30年(1897年)8月10日、花火見物の人出で木橋の欄干が崩れ、多数の死傷者が出た。火除地の広小路と一体になった江戸一番の盛り場は、その賑わいのせいで架け替えられ、場所ごと動いた。
もうひとつ。切絵図には「両国橋長九十六間」とある。九十六間はおよそ174メートル。いまの橋(164.5メートル)より長い。川幅そのものが変わったことになる。
その出会いは、なかった
橋のたもとに句碑が立っている。大高源五句碑。昭和3年(1928年)の建立だ。
場所は現在の両国橋の東詰、隅田川テラスへ降りる階段の脇。首都高の高架はもう少し川寄りを通っていて、碑はその手前にある。広重の「名所江戸百景 両国橋大川ばた」を写した銅レリーフの碑と、表忠碑と、3つ並んでいる。荒割りの自然石に、変体仮名まじりの草書で2行。説明板は付いていない。

大高源五句碑(両国橋東詰)。刻まれているのは「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」の一句だけで、作者名はない。2026年8月撮影
ところが調べてみると、この出会い自体が史実ではなかった。
大高源吾が江戸で其角に師事した事実はなく、両国橋の一件も後世の作り話——というのが、調べのついたところだった。出どころまで指摘されていて、為永春水の人情本『伊呂波文庫』による虚構あたりが元らしい。図書館が4つの文献にあたって出した答えで、どれも「後世に作られた話」としている。
しかも碑をよく見ると、刻まれているのは「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」の一句だけで、作者名がない。芝居であの橋の上で交わされる「明日待たるゝその宝船」でもない。討入りのあとに詠んだとされる、別の句だ。
墨田区の紹介も「大高源五の俳句といわれる」と書く。「伝・大高源吾の句碑」と呼ぶ資料もある。誰も断定していない。
つまり、こういうことになる。史実でない出会いを記念する碑が、その出会いがあったとされる場所に、昭和3年から立っている。 芝居のほうが、碑より200年以上早い。
正直に言うと、この碑の前は毎週のように通っている。近所の道だ。
通っているのに、何の碑かは知らなかった。立ち寄ったことも何度かある。ただ、目が行くのは隣の表忠碑のほう。あちらは背が高くて、いやでも目に入る。その脇にある、荒割りの小さな石。
それがこの句碑だと気づいたのは、取材に出る前の下調べのときだった。いつも通り過ぎていたものが、いま調べている芝居につながった。びっくりした。
ちなみに、江戸で「両国」といえば橋の西詰(いまの中央区東日本橋)のことだった。東詰(いまの墨田区両国)のほうは「本所両国」「向こう両国」。いまは東側が「両国」だ。ここでも江戸と現在は入れ替わっている。
二千五百五十坪の、ほんの一部
橋を渡って東へ7分ほど歩くと、本所松坂町公園に着く。吉良邸跡だ。
なまこ壁に囲まれた一角は、住宅とビルのあいだにぽつんとある。現地の案内板によれば、吉良邸は東西七十二間・南北三十五間、面積二千五百五十坪(約8,400平方メートル)。いまの公園は、その86分の1だ。

本所松坂町公園(吉良邸跡)。二千五百五十坪のうち、残っているのはこの一角だけ。2026年8月撮影
割ってみると、ちゃんと合う。公園の面積は約98平方メートル(区の由来板は「九十七、五六平方メートル」と書く)。九十七坪ではない。97平方メートルだ。
ただし、狭いのは公園であって、屋敷ではない。
当時の広さを教えてくれるのは、公園の外にある。墨田区は「吉良邸正門跡」の板を公園から東へ約60メートル、「吉良邸裏門跡」の板を西へ約80メートルの場所に立てている。2枚のあいだは、およそ140メートル。板にある「東西七十二間」(約131メートル)と、桁が合う。
赤穂浪士が正門と裏門の二手に分かれて討ち入った、というのはこの距離の話だ。正門から二十三名、裏門から二十四名。なまこ壁の中にいるかぎり、それは見えない。
なお、この場所では毎年12月に義士祭がある。討入りの日付が近づくと人が集まる土地だということは、頭に入れておきたい。
北隣にいたのは、別の人だった
公園を出て、北へ歩く。
史実で吉良邸の北隣にいたのは、旗本・土屋主税(土屋逵直、3,000石)。松浦侯ではない。もっとも両屋敷は塀を接していたわけではなく、あいだに通路があったとされる。
討入りの夜、土屋が幕府に使者を出して事件を通報したこと、検使役人に「侵入者は五、六十人、いずれも火事装束のように見えた」と報告したことは、史実として確認できる。一方、有名な「浪士に加勢して高提灯を掲げ、その下に射手を配した」という話は儒学者・室鳩巣の『鳩巣小説』によるもので、信憑性を疑う見方がある(三田村鳶魚は土屋の関与を否定している)。
つまり「隣家の殿様が味方をした」という物語自体、すでに一段の脚色を含んでいる可能性が高い。講談や歌舞伎には『土屋主税』という、主役を土屋にした作品も別にある。同じ枠組みで、主役だけが違うバージョンが並んでいるわけで、「隣家の殿様」という役柄が、誰かを入れるための器だったことがわかる。
で、いまその北隣に、土屋主税を示すものはあるのか。
公園から北へ130メートルほどのところに、石碑が1本ある。ただしこれは「本所松坂町跡」——昭和4年に町名が消えたのを惜しんで、昭和7年に町会が建てた碑で、赤穂事件の顕彰碑ではない。そこから東へ回ると両国小学校の前に出る。立っているのは芥川龍之介の文学碑。芥川はこの学校(当時の江東尋常小学校)で学んでいる。
墨田区は本所一帯に「忠臣蔵」「江戸の町」「両国物語」と題した番号つきの解説板を、面で並べている。この一帯だけで十数枚。四十七士の一人の宅跡にも板があり、討入りに出てこない架空の人物(俵星玄蕃)の道場跡にまで板がある。板のほうが「架空の人物です」と断ってくれている。
土屋主税の板は、ない。
フェアに書いておくと、吉良邸跡の板が使っている図版——尾張屋清七版の江戸切絵図——には、松坂町の北に隣り合う武家屋敷の名が刷り込まれている。土屋家と本多家の区画は、その図の中には存在する。本文が名前を挙げないだけで、図の中では隣にいる。

松坂町(灰色=町家)の北に、土屋家・本多家の武家屋敷の区画が並ぶ。吉良邸は元禄16年(1703年)に収公されているので、この絵図に屋敷は無い。〔江戸切絵図〕本所絵図(尾張屋清七、嘉永2〜文久2年)国立国会図書館デジタルコレクションより転載(保護期間満了) dl.ndl.go.jp/pid/1286679
探しながら歩いた。公園のすぐ北の通りと、その一本先の通り。史実の隣人がいたのは、そのあたりのはずだ。
それらしい印はない。
無いものは無いのだろう。ただ、何か見つけたいとは思っている。
陣太鼓は、川を越えては届かない
じゃあ、松浦侯の屋敷はどこにあったのか。
隅田川の向こう側だ。
平戸藩松浦家の江戸上屋敷は、浅草・鳥越(いまの台東区浅草橋5-1-24、都立忍岡高校の敷地)にあった。吉良邸からは川を挟んで直線でおよそ1.5キロ。歩けば20分以上かかる。
寛政元年(1789年)の武鑑にも、平戸藩の上屋敷は「上浅草鳥越」とある。芝居が設定した「隣家」は、史実には存在しない。
太鼓は、そこまでは聞こえない。
白状すると、私はこの芝居を、そういう話だと思っていた。川向こうの松浦邸まで、陣太鼓が届いた話だと。
だから最初に浮かんだのは「いくらなんでも遠すぎないか」だった。この距離は前から知っている。両国橋を渡って、浅草橋まで。聞こえるわけがない。
芝居のほうが「隣」だと言っている——そう知ったのは、この考証を始めてからだった。
つまり私は、芝居よりも遠い設定を、勝手に信じていたことになる。芝居は聞こえる距離まで屋敷を引き寄せていた。私は引き寄せる前の場所に屋敷を置いたまま、それでも太鼓が届いたと思っていた。どちらも、川を無視している。
橋の上に立った。その朝は曇っていて、8月なのに風があって、涼しかった。時間が早いので、行き交うのは観光船ではなく作業の船だった。

両国橋の東詰から見た隅田川。2026年8月11日の朝
この川は、いまも働いている。 無視できるようなものじゃない。
なぜ、松浦侯だったのか
ここで終わらせると「芝居は史実と違う」という指摘にしかならない。面白いのはその先だ。なぜ、無関係の松浦侯が呼ばれたのか。
理由は、役の要件が先にあって、人物があとから決まったからだと思う。
この芝居の見せ場は、太鼓の打ち方を聞き分けること。それができる人物でなければならない。つまり兵学の素養がある大名が要る。平戸藩松浦家は山鹿流兵学を家学としていた。松浦家と山鹿素行の結びつきは史実で、庭園の護岸を「山鹿素行の築城法に則って」石垣状に改修した記録まで残っている。兵学が庭にまで及んでいる家だった。
そこへ、明治になって実名が使えるようになった事情が重なる。江戸時代は実在の事件をそのまま扱えず、『仮名手本忠臣蔵』のように鎌倉時代に仮託して書くしかなかった。制約が消えたとき、「陣太鼓を聞き分けられる殿様」という役の条件に一番はまる家として、松浦家が選ばれた。
現行の『松浦の太鼓』は、安政3年(1856年)江戸森田座の一幕を原型に、明治の改作を重ねて成立している。明治15年(1882年)、大阪角の芝居で三世中村歌六が松浦鎮信を勤めた。 明治33年(1900年)大阪朝日座の『松浦陣太鼓』が現行作の直接の元で、三世歌六のあたり役を初代吉右衛門が継ぎ、「秀山十種」に加えて古典として定着した。
芝居が土地や人物を選ぶとき、必要なのは事実ではなく、その役が成り立つ条件のほうだ。 松浦侯は、条件を満たしたから呼ばれた。
ただし「まったくの作り話」でもない
ここは正確に書いておきたい。
松浦家は、本所に下屋敷を持っていた。
文化3年(1806年)の江戸大火のとき、当時の藩主・松浦清(静山)は「本所屋敷」へ退避している。天保年間の絵図にも、平戸藩の上屋敷と下屋敷の両方が描かれている。
そして、その屋敷跡にも板が立っている。
吉良邸跡から北へ約620メートル、歩いて10分たらず。墨田区の「両国物語」シリーズの板があり、題は「椎の木屋敷跡」。松浦家の大名屋敷がこのあたりにあった、と区が書いている。
ただし、板が語るのは怪談のほうだ。庭に立派な椎の木があったのに、葉が落ちるところを誰も見たことがない——本所七不思議の「落ち葉なしの椎」。それで松浦家は「椎の木屋敷」と呼ばれるようになった、という話だ。
赤穂義士は一行も出てこない。『松浦の太鼓』の名前も出てこない。吉良邸との位置関係にも触れていない。
松浦の名は、本所にちゃんと残っていた。ただし、まるで別の文脈で。芝居が松浦侯を隣家に呼んだのと同じように、江戸の噂話もまた、この家を別の役に呼んでいたことになる。
もっとも、時期の問題は残る。確認できるのは19世紀に入ってからで、討入り当時(元禄15年=1702年)に本所へ屋敷があった証拠はない。討入りの100年以上あとの話だ。それに620メートルは、隣ではない。太鼓が聞こえる距離でもない。
だから結論は変わらない。「吉良邸の隣の松浦邸」は芝居の作り事だ。でも「松浦家は本所と無縁だった」と書いたら、それは間違いになる。
嘘か本当かの2択にすると、こぼれ落ちるものがある。この土地にあるのは時期のずれた本当だ。芝居の嘘は、何もないところから生まれたわけではなかったのかもしれない。
学校のグラウンドの隅に
最後に、川を渡って浅草橋へ。
松浦家の上屋敷跡、つまり本物の「松浦の屋敷」があった場所には、いま都立忍岡高校が建っている。ここにはかつて蓬莱園という庭があった。敷地1万5,000坪のうち2,500坪が庭。後楽園・六義園と並んで「都下三大名園」に数えられた庭だ。
寛永年間、小堀遠州らが作庭を指揮した。最初は上屋敷ではなく別邸だったが、寛永18年(1641年)にそれまでの上屋敷が焼け、翌年ここが上屋敷になった。「詠帰亭」「望潮の入江」「色香山」——園内の景色には、ひとつひとつ名前がついていた。
そのなかに「的にはの原」がある。大正3年の『浅草区誌』は、この場所を「昔時武を講じたる所なり」と書く。庭に、武を練る場があった。 山鹿流の家であることは、庭にまで及んでいた。太鼓を聞き分ける殿様という設定は、まったくの作り話でもない。
面白いのは、この庭が更地に造られたのではないことだ。同じ『浅草区誌』は、園の東北のあたりを「此所ぞ往昔鳥越村奥州街道に當ると」と書く。かつて奥州街道が通っていた場所を、庭に取り込んでいる。天正2年(1574年)銘の六地蔵があり、応永年間(1394〜1428年)の石の多宝塔の上には榎が一本立っていて、一里塚の跡と伝えられていた。
庭ができる何十年も前からそこにあったものを、そのまま庭の景色にしている。土地の記憶の上に、名前をつけて庭を重ねている。
その庭も、関東大震災で荒れ、昭和12年(1937年)に学校の敷地として埋め立てられた。300年の歴史がそこで終わっている。
いま残るのは、グラウンドの東北隅の大イチョウと、「望潮の入江」と呼ばれた池のごく一部だけ。
このイチョウは東京都の天然記念物だ(昭和31年指定)。高さ約21.3メートル、幹囲約4.8メートル。案内板は「このイチョウはその当初からあったもの」と書く。庭が造られた寛永9年から、この木はここに立っていることになる。400年近い。
庭は埋められ、池も、三十六あった景色の名前も消えた。木だけが残っている。
ひとつ注意。イチョウも池も、高校の敷地の中にある。勝手には入れない。 中を見られるのは、学校のイベントのときか、手順を踏んで施設(テニスコートなど)を利用するときだけだ。ふだんは正門の前から、木を見上げることになる。それでも、見上げるだけの価値はある。

正門の前から見上げる大イチョウ。敷地内には入れないので、ここが定位置になる。2026年8月撮影
明治40年の『東京案内』と大正3年の『浅草区誌』には、失われる前の蓬莱園の写真が載っている。水面に張り出した水亭、広い池、対岸の樹林。どちらも国立国会図書館デジタルコレクションで見られる(保護期間満了)。

失われる前の蓬莱園。左が水面に張り出した水亭。『浅草区誌』上巻(東京市浅草区 編、大正3年)国立国会図書館デジタルコレクションより転載(保護期間満了) dl.ndl.go.jp/pid/950733
毎週、その庭の跡で遊んでいる
ここまで書いてこなかったことがある。
ここは、私の近所だ。
蓬莱園跡の一部である柳北公園は、休日にほとんど毎週、子どもと行く公園だ。滑り台があって、ベンチがあって、近所の子が走り回っている。
大イチョウは、公園からは見えない。あいだに高校の校舎が入るからだ。ただ、正門の前はほぼ毎日通るので、そこからは見える。平日は毎日、400年の木を見ていることになる。
順番も、逆だった。
ここが江戸の名園だったことは、引っ越してくる前から知っていた。跡地に「蓬莱園跡」と彫った碑が立っているからだ。土地のほうが先で、芝居があとから来た。

跡地に立つ「蓬莱園跡」の碑。2023年1月撮影
芝居を3回観て、考証を積んで、両国を歩いて、川を渡って——そうしてたどり着いた「実在の松浦邸」が、とっくに知っている公園だった。
『松浦の太鼓』が私にとって特別な演目になったのは、たぶんこれが理由だ。舞台が、知らない土地じゃなかった。
見え方が変わったかというと、変わっていない。滑り台は滑り台のままだ。ただ、ここが『松浦の太鼓』の舞台なんだよな、と思いながら遊んでいる。
隣にいなかった殿様のこと
両国橋を渡って吉良邸跡に立ち、北隣に土屋主税の印がないことを確かめ、また橋を渡って浅草橋まで来る。半日の道のりのあいだに、芝居と史実が何度も入れ替わる。
芝居は、隣にいなかった殿様を隣に置いた。史実の隣人には板もない。実在の屋敷跡は高校になり、庭の名残は公園になっている。北の椎の木屋敷跡の板は、松浦家を怪談の側からだけ紹介している。
数えてみると、この芝居は嘘の上に嘘を重ねている。序幕の出会いは作り話。二幕目の隣家は作り事。太鼓を聞く殿様は、無関係の人物。 それでも橋のたもとには句碑が立ち、公園にはなまこ壁が残っている。嘘のほうが先にあって、土地があとから追いかけた。
もうひとつ、書き残しておきたいことがある。
討入りのあと、浪士たちは両国橋を渡らなかった。
竪川に架かる一之橋のたもとに板があって、赤穂浪士が引き揚げで最初に渡った橋だと書いている(板は典拠を示していないので、そう伝わる、以上には書けない)。そこから永代橋へ回り、高輪の泉岳寺まで歩いたことになる。芝居が序幕の舞台に選んだ橋を、当人たちは通っていない。
その道はまだ歩いていない。10キロ近い。涼しくなったら歩こうと思っている。
それでも、太鼓を数える場面のよろこびは本物だ。隣で討入りが始まったと知った殿様が、うれしさを隠さずに指を折る。あの嘘を、140年あまりの上演が本当にしてきた。
聖地巡礼というのは、遠くへ訪ねていくものだと思っていた。そうでもないらしい。
近所すぎる、という問題はある。それでも、聖地に住むのは悪くない。
東京に住むというのは、江戸の上に住むということだ。名園の池は埋められて校庭になり、隅に木が一本だけ残っている。史実でない出会いを記念する碑の前を、毎週通っている。歴史は展示されて終わったのではなくて、その上で暮らしが続いている。
今週末も、たぶん子どもとあの公園にいる。
散歩の道順について
散歩の道順は本文とは別に、記事の下に置いた。駅から吉良邸跡へ先に行き、句碑を見てから両国橋を渡り、神田川沿いに屋形船を眺めながら左衛門橋まで歩いて、浅草橋へ抜ける。本文の順(橋→句碑→吉良邸)とは逆だが、橋を渡るのは一度で済む。
出典・参考(10件)
- 場割・配役・上演記録: 2017年1月/2019年9月 歌舞伎座筋書(現物)、歌舞伎美人
- 松浦邸と吉良邸の位置関係:
research/notes/matsuura-kira-rinsetsu.md - 平戸藩上屋敷: 永松義博・杉本和宏・吉田健「平戸藩江戸屋敷『蓬莱園』に織り込まれた景色」南九州大学研報 47A: 39-78 (2017)/寛政武鑑(寛政元年)ROIS-CODH 武鑑全集
- 蓬莱園の景と写真: 『東京案内』下巻(明治40年)pid/764078/『浅草区誌』上巻(大正3年)pid/950733(いずれも国立国会図書館デジタルコレクション・保護期間満了)。翻刻は
research/notes/horaien-shiryo.md - 両国橋の位置:
research/notes/ryogokubashi-ichi.md - 土屋主税:
research/notes/matsuura-kira-rinsetsu.md(『鳩巣小説』の信憑性への疑義を含む) - 句碑が史実でない出会いを記念していること:
research/notes/otaka-gengo-kikaku.md/レファレンス協同データベース 事例ID 1000184230 - 吉良邸の規模・「八十六分の一」: 墨田区 現地案内板(「本所松坂町公園由来」/「江戸の町」33番)。2026-08-11 取材時に撮影・文字起こし
- 椎の木屋敷跡(松浦家の本所屋敷): 墨田区「両国物語」2番 現地案内板(2026-08-11 撮影・文字起こし)/本所絵図 NDL pid/1286679(PDM)の「松浦豊後守」区画。豊後守は平戸藩の分家・平戸新田藩(一万石)の官位で、嘉永5年(1852年)の武鑑も同藩の屋敷を「上本所大川端」と載せる。つまり幕末の絵図に描かれているのは分家の屋敷だ。本家の下屋敷(静山が隠居した「本所屋敷」)との関係は要調査
- 現地案内板はいずれも全文を転載していない。事実の確認にのみ使い、記述は自分の言葉で書いている
訂正履歴
- 2026年(令和8年)8月19日: 出典に挙げた本所絵図の区画の刻字を「松浦壹岐守」と書いていたが、原本を確かめると「松浦豊後守」だった。豊後守は分家・平戸新田藩の官位で、幕末の絵図に描かれているのはこの分家の屋敷にあたる。本家の本所下屋敷との関係は要調査として、出典の記述を改めた。