碑を数える

浅草6丁目に、石碑が3基立っている。

南から順に、猿若町碑(浅草6-19)、江戸猿若町市村座跡碑(浅草6-18)、江戸猿若町守田座跡碑(浅草6-26)。台東区の「旧町名由来案内」が旧・浅草猿若町の名所として挙げるのは、この3基だけだ。

猿若町は、江戸三座——中村座・市村座・河原崎座(のち守田座)——が集められた芝居町だった。一丁目に中村座、二丁目に市村座、三丁目に河原崎座。碑を建てるなら三座ぶん、と考えるのが自然だろう。

ところが数えてみると、市村座の碑と守田座の碑はあるのに、中村座の碑がない。

区の案内に載っていないだけで、どこかにあるのではないか。私もそう思って探した。区の板が挙げる名所リストには番地まで書いてあるので、照合はできる。区が挙げる碑は3基で全部で、通りを歩いた範囲でも、ほかに碑は見つけられなかった。一丁目の芝居小屋、中村座だけが、猿若町に碑を持っていない。

ちなみに、なぜ中村座が一丁目なのかには理由がある。中村座を三座の筆頭としたからだと、2017年(平成29年)2月の歌舞伎座の筋書は書いている。筆頭だから一丁目を与えられた座が、いま碑を持っていない。

3基とも道路に面していて、敷地に入らずに道路から読める(猿若町碑は駐車場の奥だが、通りから見える位置にある)。碑のまわりは、何の変哲もない住宅街だ。マンションと、昔ながらの長屋が立ち並ぶ。ここがかつて芝居町だったと知らせるものは、碑のほかにほとんどない。

猿若町碑(浅草6-19)。一丁目——中村座があった区画に立つ

江戸猿若町市村座跡碑(浅草6-18)

江戸猿若町守田座跡碑(浅草6-26)

3基とも2026年(令和8年)8月11日撮影。上から南→北の順に、約115メートルの間に並んでいる。3基とも道路に面していて、敷地に入らずに読める。

この記事は、この「無い」を追いかける話だ。先に言っておくと、まだ答えは出ていない。ただ、追いかける途中で分かったことがいくつもある。

そもそも、なぜ「三座」なのか

その前に、ひとつ確かめておきたいことがある。なぜ三座なのか。

江戸の芝居小屋は、はじめから三つだったわけではない。中村座——のちに堺町へ落ち着く座だ——に続いて、葺屋町の市村座、木挽町の森田座と山村座が櫓を許され、元禄の頃には四座あった。山村座も木挽町にあって、森田座と同じ町内だ(丁目は資料で割れる。『日本演劇史』は五丁目、『演劇大全』は六丁目)。

四つが三つになったのは、正徳4年(1714年)の事件による。大奥の年寄・絵島が、代参の帰りに山村座へ通っていたことが咎められた事件だ。絵島は信州高遠へ流され、役者の生島新五郎と座元の山村長太夫も島流しになった。そして山村座は廃絶し、座名を削られた。

そして罰を受けたのは山村座だけではない。 『東都劇場沿革誌』が抄録する、六代目中村勘三郎が座元を勤めていた頃の日誌に、こうある——残り三座も一旦興行を差し止められ、芝居そのものを停止するよう申し渡された。ひと月ほどで再興は許されたが、かわりに桟敷が削られた。「上下つぶされ中通り一通り」——三階建てだった客席が、一段にされたわけだ。もとに戻せるよう願い出て許されるのは、十一年後のことになる。

つまり「江戸三座」という呼び名は、はじめからあった枠ではなく、一座が消され、残りも削られた結果の数だ。

ちなみにこの事件、資料によって細かいところが揃わない。

事件の月座元・山村長太夫の流刑地
2017年(平成29年)2月 歌舞伎座筋書1月(生島は三宅島)
『演劇大全』(明治39年・1906年)5月八丈島
『東都劇場沿革誌』(大正6年・1917年)2月豆州大島

三者三様なので、この記事では月も流刑地も断定しない。座名が削られたことと、残り三座も処分されたことは三つとも共通しているので、そこまでを書いておく。

碑がひとつ足りない、という話をこれからするわけだが、その前にすでに、座がひとつ消えている。

追い出されてできた町

まず、猿若町がどうやってできたかから。

天保12年(1841年)、幕府は天保の改革の一環として、丹波国園部藩主・小出氏の下屋敷を公収した。そしてその跡地に、江戸市中の芝居小屋の移転を命じる。芝居小屋は天保13年(1842年)から翌14年にかけて移ってきて、町ができた。町名は、江戸歌舞伎の始祖といわれる猿若勘三郎(のちの初代中村勘三郎)に因む。

火元は、表向き水茶屋だった

きっかけは火事だ。天保12年(1841年)10月7日の暁、堺町の中村座の楽屋から出火した。横二町余・縦四町ほど——ざっと220メートル×440メートル——が一時に焼け、市村座も、人形浄瑠璃の操座も、堀江六軒町・元大坂町・新和泉町・新乗物町も類焼した。

(この出火の日も本によって違う。『演劇大全』47頁は11月7日の暁とし、普請差し止めも「同月20日」と1か月ずれる。本記事は『芝居双紙』の日付で書く。)

ここで一行、気になる記述がある。『芝居双紙』第4編「東都劇場沿革誌」(関根只誠著、大正6年刊)はこう書く——「火元表向は堺町水茶屋 櫻屋喜右衛門と申上候」。

つまり火元は、表向きには水茶屋ということにして届け出た。実際は中村座の楽屋から出ている。この記述が何に基づくかは本に書かれていないので、そう書いてある、という以上には踏み込まない。ただ、芝居町がこのあとどうなったかを思うと、隠したい理由はあったのだろうと思う。

そして半年で町が立った

日付を並べるとこうなる。10月20日に普請差し止め。12月晦日に転座の申し渡し。何度も慈悲を願い出たが聞き届けられず、翌天保13年2月8日に浅草藪の内・小出氏の下屋敷地を下される。同年4月に「猿若町」の町名を下される。区割りを引き渡す絵図面が6月9日、実際に移ってきたのが7月だ。

引き移りの手当として、堺町・葺屋町へ金五千五百両が下された。

そしてこの土地、もとは沼だった。 俗に姥ヶ池と呼ばれた場所で、「地形甚だ低き故」と書かれている。ではどうやって埋めたか。

隅田川の中洲の土を下され、両町の茶屋と出方が、日々百人以上で土を運んだ。地を埋め、山を崩し、木の根を掘り——そうして天保13年5月に成功した。

追い出された芝居町は、追い出された当人たちが土を運んで作った土地の上に立っている。

つまり猿若町は、追い出された先だ。芝居は風紀を乱すという理由で、日本橋・京橋の市中から、当時は江戸の北のはずれだったこの地へ移された。

移ってきたのは、歌舞伎の三座だけではなかった。区の板によれば、一丁目には中村座と薩摩座、二丁目には市村座と結城座が移っている。どちらも人形浄瑠璃の座だ。芝居町というのは歌舞伎だけの町ではなかった。

座元の名前まで分かる。一丁目の操座は大薩摩吉右衛門、二丁目は結城孫三郎。区割図に「吉右ヱ門操座」「孫三郎操座」とあるのは、この二人のことだった。結城座は江戸糸あやつり人形の一座として現存するといわれる。

もうひとつ、この町の成り立ちには有名な話がある。水野忠邦が芝居小屋の廃止を打ち出したとき、遠山左衛門尉景元——遠山の金さん——が、庶民から娯楽を取り上げてもかえって人心の安定にはつながらない、と献策し、廃止ではなく郊外への移転になった、という話だ。

現地でこれを語っているのは町会の掲示とみられる札だけで、区の板には出てこない。それで最初は「伝説」の枠に入れていた。

ところが、書いてある文献があった。明治39年(1906年)刊の『演劇大全』(関根黙庵著)だ。この本には「猿若町移轉と遠山左衛門尉」という章が丸ごとあって、こう結んでいる——今日まで演劇が連綿と発達し隆盛しているのも、実に遠山左衛門尉の賜である、と。

しかもこの本は、遠山が水野に出した書付をそのまま載せている。 「芝居場所替其外取締之義ニ付勘辨仕候趣申上候書付 遠山左衛門尉」、日付は丑十二月十日——天保12年12月10日だ。書付の冒頭は「去る二日御下被成候」で始まる。つまり12月2日に諮問が下り、10日に遠山が答え、18日に替地が決まった。 8日で答案を書いている。(この「18日」は『演劇大全』の日付で、さっき『芝居双紙』から引いた連鎖——12月晦日の申し渡し、翌2月8日の下屋敷地——とは揃わない。ここも2冊で食い違う。)

ただしこの日付、別の本では違う。 『演劇大全』の著者・関根黙庵の父、関根只誠の稿を収めた『芝居双紙』(大正6年刊)は、同じ書付を「十一月十日」、諮問を「去る二月」と書く。父と子で数字が揃わない。どちらが正しいかは決められない。ここでは『演劇大全』の日付を採ったうえで、食い違いがあることを書いておく。

この本にはもうひとつ、別の説も書かれている。水野の御祐筆・成瀬吉右衛門なる者が、劇場破却が決まったことを密かに遠山へ急報し、遠山はすぐに答書を作って弁護した——「とも云ふ」。誰の手柄かは、明治の時点ですでに一本化されていなかったらしい。

ただし『演劇大全』も引用元を示していない。書付の原本にあたる記録集(『市中取締類集』の「芝居所替之部」)は国立国会図書館にあって保護期間も満了しているのだが、写本のくずし字なので、私にはまだ読めない。だから本記事では「明治39年刊の演劇研究書がそう書いている」までにしておく。

町名としての猿若町は、昭和41年(1966年)10月の住居表示実施まで124年続いた。

同じ区の板どうしが、食い違っている

ところで、三座は移転前どこにいたのか。ここで妙なことが起きる。同じ台東区の管内で、板によって答えが違う。

  • 山谷堀ヒストリカルツアーの板は、三座が「江戸市中の葺屋町」にあったと書く。英語面も同じで、三座まとめて “previously in Fukiyachō” だ。
  • 旧町名由来案内の板は、「境町・葺屋町・木挽町」と3つの町を挙げる。

一般には、中村座=堺町、市村座=葺屋町、森田座=木挽町とされる。第三の出典を探したら、見つかった。明治39年刊の『演劇大全』が、こう書いている——「中村座を一丁目、市村座を二丁目、森田座を三丁目と通称して」(森田座が木挽町で始まったことは、同書の森田座の項にある)。移転を命じられた町についても「堺町・葺屋町狂言座並に操座其他……浅草聖天町に移された」。旧町名由来案内のほうが正しい。

じゃあヒストリカルツアー板は単なる間違いなのか。ここで、別のものが出てきた。

『演劇大全』は中村座の移転をこうたどる。中橋 → 寛永9年に禰宜町(後の堺町) → 慶安4年にさらに堺町へ。初めは上堺町、後に下堺町。つまり堺町には上と下があった。

堺町と葺屋町は、くじ引きで分かれた

この経緯を、伊原青々園『日本演劇史』(明治37年)が詳しく書いている。読んでみたら、思っていたより面白い話だった。

慶安4年(1651年)5月、禰宜町にあった芝居小屋がまとめて堺町へ移された。当時の堺町は上下二町に分かれていて、上堺町にはもともと村山座(のちの市村座)があった。そこへ猿若座(のちの中村座)も移ってきたので、上堺町はますます賑わう。いっぽう下堺町は操り芝居や小芝居ばかりで、上ほど賑わっていなかった。

そこで両町が話し合い、大芝居を一軒ずつ上下に分けて置きたいと願い出た。官許が下りる。そして——

官許を得て抽籤法により之れを決し

くじ引きで決めた。 結果、村山座はそのまま残り、猿若座が下堺町へ移った。

そして後世、上堺町は葺屋町と呼ばれ、下堺町は単に堺町と称されるようになる。同書は、山村座は木挽町五丁目にあったので、この堺町・葺屋町・木挽町の三町が江戸の劇場の所在地と定められ、天保年中まで殆ど二百年変わらなかった、と続ける。

つまり、中村座がいた「堺町」と市村座がいた「葺屋町」は、もとは一つの堺町の上下だった。そして二座が別々の町にいるのは、くじ引きの結果だ。

もうひとつ出てきた。市村座の前身である村山座が、どこで始まったかだ。台東区の板も『演劇大全』も「葺屋町」と書く。ところが『東都劇場沿革誌』は、座元・村山又三郎の由緒書上を引いてこう書く。

歌舞伎芝居御願申上 始て堺町ニて被仰付候

村山座は堺町で始まっている。 上堺町がのちに葺屋町と呼ばれるようになったのだから、これは矛盾ではない。後の呼び名で遡って書けば「葺屋町」になる。

だとすると、ヒストリカルツアー板が三座まとめて「葺屋町」と書いたのも、間違いというより古い呼び名と新しい呼び名が混ざった書き方なのかもしれない。断定はしない。ただ、原典に当たったら「どちらが正しいか」より面白いものが出てきた。

もうひとつ引っかかっているのが、旧町名板の「境町」という表記だ。一般には「堺町」と書く。区の板の誤記だろう——と最初は思った。

ところが、松竹の筋書も「境町」と書いていた。 2017年(平成29年)2月の歌舞伎座『猿若祭二月大歌舞伎』の筋書で、中村座が移った先を「同じ日本橋の境町」(いまの日本橋人形町三丁目)と書いている。区の板と同じ表記だ。

対して、明治の演劇書は一貫して「堺町」だ。どちらが本来の表記なのか、あるいは両方が行われていたのかは、まだ分かっていない。ただ誤記だと決めつけなくてよかったとは思っている。

設置者が同じでも、板は一致しない。案内板は「そこに書いてある」だけでは根拠にならない——このサイトで何度も踏んできた話だが、今回は同じ区の板どうしの矛盾だった。そして原典に当たったら、どちらも一方的に切り捨てられないという答えが出た。

三座は徒歩1分に収まっていた

碑と碑の距離を、現地で撮った写真のEXIFに残る位置情報から出してみた(測量ではないので、あくまで目安の数字だ)。

猿若町碑から市村座跡碑まで約61メートル。市村座跡碑から守田座跡碑まで約55メートル。南の端から北の端までは約115メートルだ。実際に歩いてみたが、ほんとうに1分で収まる距離だった。

(足すと116メートルになって1メートル合わないが、3基が厳密には一直線に並んでいないからだ。この記事、こういうのばかり出てくる。)

一丁目・二丁目・三丁目と聞くと広く感じるが、三座の碑はこの115メートルに収まっている。碑が小屋の位置をどこまで正確に示すかは分からないが、下の区割図にある一座の間口(十一間=約20メートル)を三つ並べた長さとも、桁は合う。

当時の区割図が残っている。『演劇大全』が載せる「天保十三寅年六月九日/地割引渡/猿若町叅町分/繪圖面」だ。これを見ると、幕府が三座に与えた敷地は——

  • 勘三郎狂言座(中村座)二百三十六坪余
  • 羽左ヱ門狂言座(市村座)二百三十六坪余
  • 權之助狂言座(河原崎座)二百三十六坪余

三つとも同じ広さだ。 236坪はおよそ780平方メートル。人形浄瑠璃の二座には、その半分ちょっと(百二十七坪余)が与えられている。通りの幅は「實道巾 五間」——約9メートル。

ここも数字が割れる。安政4年の猿若町名主の書上は「弐百三十六坪五合」、『芝居双紙』は「弐百三十三坪五合」と書く。ただし書上は間口と奥行も書いていて、十一間 × 二十一間半 = 236.5坪。計算は236のほうに合う。(人形浄瑠璃の「百二十七坪七合五勺」は3冊とも一致した。)

つまり移転先の芝居町は、三座を横一列に、同じ面積で並べて設計されている。 追い出しではあるけれど、割り方は等分だった。

碑が並ぶ通り。右手の駐車場の奥に猿若町碑が立つ

三座が一列に並んでいた通り(2026年〈令和8年〉8月11日撮影)。いまは住宅とマンションが建つ。

天保十三寅年六月九日「猿若町叅町分 地割引渡 繪圖面」

『演劇大全』(関根黙庵著、内外出版協会、明治39年)所載「天保十三寅年六月九日/地割引渡/猿若町叅町分/繪圖面」。国立国会図書館デジタルコレクションより転載(保護期間満了) dl.ndl.go.jp/pid/991807 / 原本は90度回転して印刷されているため、正立させて掲載した。右端が浅草聖天横町で、方位円はこちらが北。聖天横町側から三丁目・貳丁目・壹丁目の順に並び、現地の碑の並び(北が守田座跡碑)と合う。

市村座跡碑と守田座跡碑は、どちらも碑陰に「猿若三座由来記」を刻んでいる。読み取れた範囲では両者はほぼ同文で、猿若町の由来と三座の配置を語る。建立年はひとつ決着していて、守田座跡碑は昭和52年(1977年)5月の建立だ。町名が消えて11年後の碑ということになる。建てたのは「大正十三年以来の三丁目住人」と側面に刻む——守田座がいた三丁目の人だ(名前は風化で読めない)。市村座跡碑のほうは建立銘がまだ見つかっていない。台東区の観光サイトはこの碑を昭和39年(1964年)建立としていて、それなら町名が消える2年前の碑ということになるが、現地で銘を確かめるまでは区の記述として書いておく。背面と台石を見てから、2基の碑陰を照合して由来記の全文を確定させるつもりだ。

猿若町碑にも建立銘がある。昭和49年(1974年)10月、「新美武建之」。守田座跡碑より3年早い。

その左下に、もう一行ある。「蟹助書」。守田座跡碑の題字の脇にも、同じ三字に見える小さな署名がある。蟹助は竹柴蟹助(1904〜89年)——歌舞伎座の座付狂言作者で、柝を打つ裏方を勤めながら、廃れかけていた勘亭流の芝居文字を復活させた第一人者だ。碑の題字がどれも芝居の看板のような太い筆文字なのは、そのためだった。昭和49年なら蟹助は69歳、52年なら72歳。猿若町の碑は、芝居文字の本家が字を書いた碑ということになる。2基の署名は同じ三字で、一字目は風化しているが「蟹」の構えに合う。

絵図には、中村座が描かれている

「中村座の碑がない」と書いてきた。じゃあ、そもそも中村座は本当にそこにあったのか。

あった。一次史料が名指しで描いている。

嘉永6年(1853年)刊の江戸切絵図「今戸箕輪浅草絵図」(戸松昌訓著・尾張屋清七刊)に、猿若町の区画が載っている。そこに中村座/市村座/川原嵜座の三座が、一列に並んで、座名つきで描かれている(絵図の字は「河」ではなく「川」、「崎」は山を上に乗せた「嵜」の形だ)。

図上の並びは、南(浅草寺側)から中村座・市村座・川原嵜座。現地の碑の並び——猿若町碑(一丁目側)・市村座跡碑・守田座跡碑——と、写真の位置情報から出した南北の並びが同じ順序になる。絵図の方位円は原図の右を北とするので、回転して載せたこの向きでは左が北——川原嵜座の側が北で、碑の並びと合う。

今戸箕輪浅草絵図に描かれた中村座・市村座・川原嵜座

右から中村座・市村座・川原嵜座。国立国会図書館のスキャンは上下が逆なので、180度回転して掲載した。この向きでは左が北。

〔江戸切絵図〕今戸箕輪浅草絵図(戸松昌訓著、尾張屋清七、嘉永6年)国立国会図書館デジタルコレクションより転載(保護期間満了) dl.ndl.go.jp/pid/1286208

この絵図で、もうひとつ決まったことがある。

現地の碑は「守田座跡」だが、絵図は「川原嵜座」と彫っている。猿若町三丁目に移ってきたのは河原崎座(森田座の控櫓)で、守田座という座名はのちの改称——碑陰の由来記も「河原崎座(のち守田座)」と書く——だから、碑の名と、移転当時の座名は一致していない。

改称の年も分かった。『演劇大全』によれば、森田座が河原崎座になったのは文化元年(1804年)、河原崎権之助が座元になったときだ。そして森田座に戻ったのが元治元年の焼失の後、守田座になったのは明治元年(1868年)。守田勘弥がこのとき「森田」を「守田」に改めている。

並べるとこうなる。森田座(万治3年・1660)→ 河原崎座(文化元年・1804)→ 森田座(元治元年以後)→ 守田座(明治元年・1868)。嘉永6年の絵図が「川原嵜座」なのは当時の正しい座名で、碑の「守田座」はその15年後の名前だ。

整理すると、こうなる。絵図が「中村座はあった」ことを証明している。あったのに、その碑だけがない。

三座はどこへ散った?——二長町・新富町・鳥越

猿若町の芝居町としての命は、意外と短い。明治に入ると三座は次々と市中へ戻っていき、町は芝居町ではなくなる。三座それぞれの行き先を追うと、いまの東京に3つの点が打てる。

市村座——下谷二長町

市村座は明治25年(1892年)、下谷二長町(いまの台東区台東1丁目)へ移った。台東区教育委員会の案内板が変遷を書いている: 寛永11年(1634年)日本橋葺屋町で創業、天保13年(1842年)猿若町二丁目へ、明治25年(1892年)二長町へ。

二長町時代の市村座は、六世尾上菊五郎と初代中村吉右衛門の「二長町時代」で知られる。

ところで、二長町にはもうひとつ発祥がある。凸版印刷だ。 凸版印刷合資会社は明治33年(1900年)1月17日、東京市下谷区二長町1番地——いまの台東区台東1丁目——で創業している。市村座が二長町に来たのが明治25年だから、芝居小屋と印刷会社は同じ町内に同居していたことになる。跡地一帯に立つ本店ビルはその創業の地にある。そして社名が凸版印刷からTOPPANホールディングスに変わったのは2023年(令和5年)10月、持株会社化のときだ。

ここまで、名前が変わりつづける話ばかり書いてきた。中村座は猿若座になり鳥越座になった。森田座は河原崎座になり守田座になり新富座になった。同じ町内で、印刷会社の社名からも「印刷」が消えた。

その本店ビルがいま解体中で、8月に行ったときは、囲いの外から碑を見ることができなかった。

「市村座跡」と刻まれた石

解体前の二長町。植込みの前に「市村座跡」の石があった(2017年〈平成29年〉5月12日撮影)。すぐ後ろに台東区教育委員会の説明板も立っていて、それが冒頭に引いた市村座の変遷を書いている。

壁に囲われた二長町の敷地

同じ場所(2026年〈令和8年〉8月9日撮影)。手前の白い壁の内側に碑が残っている。説明板のほうは撤去された。

この解体は、私が定点で撮り続けている。上の2枚もその記録から選んだ。長く通った道だから、囲いが立つ前と後を、つい同じ角度から撮ってしまう。

碑を見に行って「無い」を確かめるのと、通り慣れた道で「無くなる」のを見るのとでは、同じ「無い」でも手ざわりが違う。猿若町の中村座は、私が生まれるずっと前から無かった。二長町の市村座の碑は、通るたびに見ていた。

それで9月にまた通りかかって、碑はまだあった。

工事の囲いの透明な部分越しに見える「市村座跡」の碑

囲いの中に残された「市村座跡」の碑(2026年〈令和8年〉9月5日撮影)。囲いの一部が透明になっていて、外から見えるようにしてある。

工事の塀にぐるりと囲まれた中に、碑はそのまま置かれていた。そして塀の一部が透明になっていて、そこから見える。誰かが、工事のあいだも碑を見せておくと決めたわけだ。説明板のほうは撤去されている。

碑は無くなっていなかった。中村座の碑は猿若町に無く、市村座の碑は、工事中でも見えるようにしてある。 同じ「碑」でも、扱いはこれだけ違う。

工事が終わったあと、碑がどこへ置かれるのかは、まだ分からない。定点で撮りながら見ている。

守田座——新富町

守田座は明治5年(1872年)に新富町(いまの中央区新富2丁目)への転座の許可を得て、同年8月に建築した。新富座という名になったのは明治8年(1875年)9月だ。移転と改称のあいだに3年ある。

その後も落ち着かない。明治12年に新築落成、明治13年11月には「新富演劇会社」になり、明治15年に解散。明治27年にまた新富座、明治29年に都座、そして明治39年の時点でまた新富座——と名前が行き来している。

跡地はいま京橋税務署と東京都中央都税事務所の入るビルだ。その前の歩道に、中央区教育委員会が令和2年(2020年)8月に立てた説明板がある。板には明治の錦絵「惣役者集会『東京第一等之劇場新富座繁栄之図』」(中央区立郷土天文館蔵)が刷り込まれていて、新富座を背景に名優たちが並んでいる。

京橋税務署。この一帯が新富座の跡地

新富座跡(中央区新富2丁目)。2026年(令和8年)8月9日撮影。

私はこの街に、月に一度来ている。美容室が新富町にあるからだ。

この板を読んで、また食い違いが出た。

板はこう書く——森田座は安政5年(1858年)に「守田」と改めた。いっぽう『演劇大全』は明治元年(1868年)に守田座と改め、守田勘弥と改名したと書く。10年ずれている。

どちらが正しいかは、いまの私には決められない。だから両方書いておく。

板からは収穫もあった。森田座がもといた木挽町五丁目は、いまの銀座六丁目だという。それから、板の英語面が親切で、「森」を「守」に変えても読みは変わらないとわざわざ断っている。字だけ替えた改名だったわけだ。

その後の新富座は、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失した。

中村座——鳥越

で、中村座だ。

中村座の明治の痕跡は、鳥越のおかず横丁にある。ただしそれは、区の板でも碑でもない。漬物店の店主の手書き看板だ。

大きく「味の飛脚 郡司味噌漬物店」と書かれた木の札の左端に、小さく、こうある。

旧浅草西鳥越 猿若座ー中村座ー鳥越座 跡 店主

郡司味噌漬物店の手書き看板

おかず横丁・郡司味噌漬物店の手書き看板(2019年〈令和元年〉5月5日撮影)。左端に小さく「旧浅草西鳥越 猿若座ー中村座ー鳥越座 跡」、その下に「店主」とある。

年代は書いていない。座の名前が三つ並んでいるだけだ。この9月、店の外装は新しくなっていたが、看板は同じものが掛かっている。

私的な手書き看板が唯一の根拠、というのはさすがに心もとない。それで『演劇大全』の中村座の項を読んだら、書いてあった。

  • 明治11年(1878年)3月、都座と改名
  • 明治12年(1879年)3月、岩井半四郎の養子・粂三郎が座元になってまた元の猿若座と改称
  • 明治16年(1883年)2月、若太夫・中村明石が座元になり、同年12月28日に浅草区西鳥越町2番地へ転座
  • 明治17年(1884年)10月に新築落成、11月21日に初興行。間口十三間・奥行二十五間
  • 明治18年(1885年)焼失。その後「鳥越座」となる
  • 明治26年(1893年)またも火災に罹って廃座

看板の言う「旧浅草西鳥越」は「浅草区西鳥越町二番地」と合う。「猿若座」は明治12年の改称、「鳥越座」は明治18年以後——両端が合った。

真ん中の「中村座」は『演劇大全』には出てこないのだが、これも別の本にあった。大正6年刊の『芝居双紙』第4編「東都劇場沿革誌」——『演劇大全』の著者の父、関根只誠の稿だ——が、十四代目の項にこう書いている。「十四代目 中村明石 座名 中村座ヲ改 鳥越座 十三代目勘三郎実子 明治十六年十月相続ス」。ただし転座の時期は2冊で食い違う(『芝居双紙』は明治17年春・同年11月開場、『演劇大全』は明治16年12月28日・17年11月21日初興行)。

つまり三段とも合っている。 私的な手書き看板が、二つの文献をまたぐ系譜を、年代も出典もなしに一行に畳んでいたことになる。

そして最後の一行が効く。明治39年の時点で『演劇大全』の著者はこう書いている——その後、浅草代地・徳川邸の明地に再建の噂もあったが、今日に至るも未だ新築されぬ。

つまり中村座は、明治26年の火事で終わったまま、建て直されなかった。 猿若町に碑がないという話をここまでしてきたが、明治の中村座は小屋そのものが戻ってこなかった。

おかず横丁は、毎日子どもを保育園へ送るときに通る道だ。だからこの漬物屋の前も毎日通っているし、子どものお気に入りの店で、よく買ってもいる。一度それとなく芝居小屋のことを尋ねてみたが、応対してくれた店員さんは詳しくなさそうだった。今度は店主に聞いてみるつもりでいる。

並べてみると、対比がはっきりする。市村座と守田座には公的な碑や説明板があり、中村座には店主の手書き看板しかない。 猿若町で碑を持たない一座は、明治の移転先でも、公的な顕彰を持っていない。

一座だけが、帰った

三座の出発点を思い出してほしい。中村座=堺町、市村座=葺屋町、森田座=木挽町。いずれもいまの中央区だ。

守田座が新富町で新富座になったあと、木挽町には明治22年(1889年)に新しい劇場が建つ。歌舞伎座だ。千葉勝五郎と福地桜痴が企図し、京橋区木挽町二丁目で同年4月に工事を起こして、八箇月余で落成した。

ここで正確に書いておく。猿若町三丁目に移った座の元地は、木挽町五丁目だ。中央区の説明板によれば、いまの銀座6丁目にあたる。いっぽう歌舞伎座は木挽町二丁目——いまの銀座4丁目だ。つまり同じ町だが、丁目が違う。 「同じ場所に戻った」と書けるほどではない。

それでも、こういう円環は描ける。天保の改革で木挽町を追い出された森田座の系譜は新富町で途切れるが、芝居のほうは47年で、出発点の木挽町に戻っている。いま歌舞伎座で芝居を観るというのは、江戸三座が追い出される前の芝居町——その同じ町内で観る、ということだ。

それだけではない。歌舞伎座の定式幕は、森田座=守田座の方式を継いでいる。

定式幕というのは、芝居の始めと終わりに引かれる縦縞の幕のことだ。座ごとに色の並びが違っていて、歌舞伎座のそれは萌黄・柿・黒——守田座の方式だ。いっぽう中村座は柿・白・黒を用いた。ちなみにこのサイトの配色は、その中村座の黒・白・柿から取っている。歌舞伎座の並びは松竹が商標登録していて、借りるならこちらだった——近所が中村座跡という縁にも合う。

この中村座の三色には、由来が伝わっている。初代猿若勘三郎が、幕府の巨船・安宅丸が入港するとき船の舳先で采配を振って音頭を取り、無事に入津させた。その手柄で拝領した船覆いの幕から三色の幕を考案した——と言われる。

つまり歌舞伎座は、場所も幕の色も、森田座の側を継いでいる。 三座のうち一座だけが、出発点に戻って、色まで持ち帰った。

そして中村座は、浅草に帰ってきた——平成中村座

そして2026年の秋、中村座の名が浅草に帰ってきた。

2026年(令和8年)10月1日から25日まで、平成中村座が浅草に来た。 浅草寺境内に仮設劇場を建てての興行で、浅草に立つのは4年ぶりだ。

平成中村座が始まったのは2000年(平成12年)。十八世中村勘三郎(当時は五代目勘九郎)が、江戸時代のにぎわいそのままの芝居小屋を建てたい、と浅草に仮設の小屋を建てた。旗揚げは11月、隅田公園の山谷堀。つまり生まれた場所も浅草だ。その櫓が、猿若町からほんの数百メートルの浅草寺境内に、また上がった。

そしてここに、碑がある。隅田公園の今戸橋跡のそばに「平成中村座発祥の地」の碑が立っていて、2000年11月にここ山谷堀で平成中村座が実現したこと、第一回の演目が『隅田川続俤 法界坊』だったことを刻んでいる。建立は2015年(平成27年)3月——碑の側面にそう刻んである(ウェブの採録には4月とするものがあるが、刻銘を採る)。猿若町の三座跡から歩いて数分の場所だ。江戸の中村座の碑は猿若町に無く、平成中村座の碑はその先の公園にある——碑を数えにきた身には、皮肉のようでもあり、続きのようでもある。

赤御影石の「平成中村座 発祥の地」碑と、右に立つ白御影の銘板の石柱

「平成中村座 発祥の地」の碑(隅田公園・山谷堀広場、2026年〈令和8年〉9月13日撮影)。右の白い石柱が銘板。碑の側面に「平成二十七年三月吉日 平成中村座発祥の地記念碑建立実行委員会」と刻んである。

演目にも縁がある。第二部にかかったのは『御存 鈴ヶ森』と『助六曲輪初花桜』——助六だ。山谷堀を猪牙舟が通った時代の男の芝居が、山谷堀のすぐそばの小屋にかかった。

ここで、9年前に観た芝居の話をさせてほしい。2017年(平成29年)2月4日、歌舞伎座の猿若祭二月大歌舞伎・昼の部。最初の演目が、猿若江戸の初櫓(さるわかえどのはつやぐら)だった。

正月の江戸に、京で評判をとった出雲の阿国と猿若の一座が下ってくる。猿若は、狼藉者に襲われて荷車を動かせずにいる材木商・福富屋の夫婦を助け、自ら音頭を取って若衆に車を曳かせる。それを見ていた奉行・板倉勝重が猿若たちを呼び、江戸で興行する場所を探していると聞いて、日本橋付近の中橋に芝居小屋を建てることを許す——という筋の舞踊劇だ。つまり芝居小屋が生まれる場面そのものが芝居になっている。

猿若を勤めたのは当代の中村勘九郎、阿国は弟の七之助。猿若の名を、その名跡につらなる中村屋の当代が踊るという演目を、「猿若祭」と銘打った月にやる。

(さっき定式幕のところで、初代勘三郎が安宅丸の舳先で音頭を取ったという伝説を書いた。この舞踊でも猿若は荷車を曳く音頭を取る。猿若=音頭を取る人という像が、伝説と芝居で重なっている。)

ひとつ注意しておくと、出雲の阿国が江戸へ下った史実はない。これは筋書自身が断っていて、阿国に始まった歌舞伎が江戸へ進出するまでを象徴的に表したものだ、と説明している。芝居のほうが正直な場合もある。

観ていて思ったのは、これは相当なプレッシャーだろうな、ということだった。舞台の上で「我々が始祖である」と名乗ってみせる役を、その名跡を継ぐ当人が踊る。しかも当時の勘九郎と七之助は若い。

そして、江戸に住んでいて、その江戸で始まった歌舞伎を、いまも観られている。書いてしまえば当たり前だが、これはすごいことだと思う。そもそも私がこのサイトを始めたのも、歌舞伎を知る前に、その土地を歩いていたと気づいたからだった。

猿若町に中村座の碑はない。でも2026年の10月、碑の代わりに、本物の芝居小屋が浅草に立った。碑を探して見つからなかった場所のすぐ近くに、櫓が上がったことになる。

浅草寺本堂裏に組み上がった平成中村座の仮設劇場。ベージュの外壁シートと足場、背後に本堂の屋根

浅草寺本堂裏に組み上がった仮設劇場(2026年〈令和8年〉9月13日撮影・着工13日目)。裏手にあたる西側の駐車場から。外壁のシートが張られ、背後に本堂の屋根が見える。正面側はまだ工事の開口部とクレーンで、撮っていない。櫓はまだ上がっていない。 現地の「建築計画のお知らせ」によれば、着工は9月1日、完了予定は9月24日。鉄骨造の「仮設興行場」で、基礎を打たずに据える置き基礎だ。

チケットは日本語の窓口では早々に完売した。ただ、松竹公式の英語窓口には別枠で在庫が残っていて、そちらで 10月3日・第二部の竹席が取れた。

10月3日、第二部を観た

そして10月3日、その第二部を観た。

建てている途中から追いかけていた小屋が、立派に建ちあがっていて、感慨深かった。9月には工事中で撮れなかった表に回ると、櫓が上がっていた。

夕方の平成中村座の表。紫の櫓に座紋、その横に絵看板が掛かる

平成中村座の表(2026年〈令和8年〉10月3日撮影・幕間)。紫の櫓に座紋、その横に絵看板。写り込んだ人の顔は消してある。

場内では、写真をむしろ勧められた。禁止なのは上演中の舞台だけで、江戸時代の小屋を再現しているので、たくさん撮っていってください、とのことだった。

廊下には、2017年(平成29年)2月の歌舞伎座、猿若祭のポスターが貼ってあった。『門出二人桃太郎』——三代目中村勘太郎と二代目中村長三郎の初舞台だ。上で書いた『猿若江戸の初櫓』を観たのと同じ猿若祭の月で、私はこの桃太郎も、翌日の夜の部で観ている。

その勘太郎が、この日の『鈴ヶ森』で白井権八を勤めていた。勘太郎、大きくなったねえ——というのが、いちばんの感想だ。前に観たのは桃太郎の姿だったから、もう立派な役者になっていて、感慨深い。

後半は助六だった。ほんとうに、浅草で助六を観られるのがうれしすぎた。歌舞伎を観たことがない友だちに説明するなら、こうだ——好きな作品の聖地で、実際の舞台で、その作品が上演される。

芝居の中身——水入りで助六が本物の水に潜ったこと、通人の股くぐりで客席が沸いたこと——は、芝居日記に書いた。この記事の末尾から読める。

数が合わないのは、碑だけじゃない

その2017年(平成29年)2月の筋書が、手元にある。表紙にこう冠されている。

江戸歌舞伎三百九十年

いい数字だ。と思って、引き算をしてみた。

2017 − 390 = 1627年。ところが、江戸歌舞伎の始まりは寛永元年=1624年とされている。『演劇大全』も、寛永元年二月に猿若勘五郎の子・勘三郎が願い出て許され、中村座と称して中の村(後の中橋)で初めて興行した、これが男歌舞伎の権輿だ、と書く。3年、合わない。

数字が合わないときは、たいてい自分の勘違いだ。そう思って筋書を読み進めたら、筋書のほうが先に白状していた。 三年ほど遠慮している、という趣旨のことが、はっきり書いてある。間違いではなく、承知のうえで丸めた数だ。

裏を取ると、同じ『猿若江戸の初櫓』の初演は昭和62年(1987年)1月で、冠は「江戸歌舞伎三百六十年」。1987 + 30 = 2017、360 + 30 = 390で、ぴったり30年差で揃う。1627年起点の年勘定は、少なくともこの30年は守られていた。

もうひとつ、数を数えている人がいる。幕府だ。

さっき出てきた遠山左衛門尉の書付。その第一条が「三座の起立の由緒を調べよ」への回答で、遠山は役所で取り調べたうえで、こう報告している(〔 〕は前の頁の末尾にある語を補ったもの)。

〔堺町勘三郎〕即芝居は二百十八年、葺屋町羽左衛門は百七十八年、木挽町權之助は百八十二年相續仕候義に御座候

書付の年は天保12年=1841年。その年を218年目として引くと、1841 − 218 + 1 = 1624年。寛永元年だ。 木挽町の182年で検算すると1660年で、『演劇大全』が書く森田座の創業「万治三子年」=1660年と合う。

つまり幕府は天保12年の時点で、中村座を寛永元年から数えていた。 町奉行が調べ直して「相違無之」と報告しているのだから、根拠としてはかなり硬い。松竹の1627年起点は、幕府の年勘定に対しても3年ずれていることになる。

江戸のほうも、数を丸めていた

なぜ遠慮するのか。 これは分からないままだが、「丸める」こと自体は江戸から続いていることが分かった。関根只誠『東都劇場沿革誌』に、実例が二つ載っている。

ひとつめ。安永2年(1773年)、中村座が壽狂言を打ったとき、芝居の脇に立てた幟に「寛永元年甲子二月十五日 男歌舞伎興行始 安永二年癸巳迄 百五十年」と染め抜いた。1624年を1年目に数えると、1773年はちょうど150年目。ぴったり合っている。

ふたつめが面白い。文化15年5月(1818年。この年の4月に文政と改元しているが、史料の表記のまま書く)、都座が「壽狂言」と称して摺物や番附を江戸中に配った。このとき看板に掲げようとしたのは「都伝内二百年壽狂言」で、口上にはこうある。

私芝居の義 先祖 寛永年中 蒙御免 於御当地芝居興行仕候より 百九十五年に相当候ニ付 二百年を祝し取越候て壽狂言仕

195年なのに、200年を「祝し取り越して」やろうとした。 5年の前倒しだ。ところが旧座元三人が異議を唱え、掛りの名主が町奉行所へ伺いを立て、「花会に紛らわしい」と差し止められて叱られた。結果は——

右狂言は致候得共 二百年の壽と云丈けは相除き 幷に祝儀の目録等は受不申候

芝居はやらせてもらえたが、「二百年の壽」という文字だけは外させられた。(この本は冒頭でこの件を「三百年の壽狂言」と書き、看板と口上は「二百年」だ。どちらが誤りかは決めずに原文のまま引く。)

ここでも 1818 − 195 + 1 = 1624年。また寛永元年だ。

三つとも1624年から数えている

年何称した年数逆算した起点
安永2年(1773)中村座の壽狂言の幟150年1624
文化15年(1818・改元後は文政元年)都座の口上(195年→200年と取り越し)195年1624
天保12年(1841)遠山左衛門尉の書付218年1624

三つとも、その年を1年目に数えて1624年に着く。 江戸の芝居も幕府も、起点は寛永元年で揃っていた。同じ数え方なら2017年(平成29年)は394年目だ。都座は195年を200年と称して叱られ、松竹は394年を390年と称している。方向は逆だが、キリのいい数字に寄せる癖は同じだ。もっとも、似ているというだけで、なぜ少なく数えるのかの答えにはなっていない。

ひとつだけ合わないのが、葺屋町の178年で、1841 − 178 + 1 = 1664年。市村座の創業とされる寛永11年=1634年から30年ずれる。これは同じ『東都劇場沿革誌』が答えてくれた。市村座の元祖・市村宇左衛門の項に「承應元年 寛文四年迄 十三ヶ年間勤る」とあって、元祖が座元を勤め終えたのが寛文4年=1664年だ。つまり書付の178年は、元祖の代を勘定に入れず、その次からの「羽左衛門」の相続を数えている。中村座と森田座は座の起立から、市村座は元祖の次から——同じ書付の中で数え方が揃っていないのに、幕府は「起立年月等相違無之」と報告している。

そして松竹は、数え直していた

ここまで書いて、引き算の続きをやってみた。松竹の数え方が続くなら、2027年(令和9年)が「江戸歌舞伎四百年」になるはずだ。そう思って過去の猿若祭を当たったら、もう祝われていた。

2024年(令和6年)2月の歌舞伎座「猿若祭二月大歌舞伎」——十八世勘三郎の十三回忌追善だ——が、「寛永元(1624)年2月15日、初世勘三郎が江戸で初めて櫓を上げてから400年」を掲げている。初日の口上で勘九郎は、今年は寛永元年から数えて400年の記念の年です、と言った。夜の部には『猿若江戸の初櫓』もかかった。

1624+400=2024。起点は寛永元年だ。 1987年と2017年は1627年起点だったから、7年のあいだに10年進んだことになる。三年の遠慮は、2024年にはもう無い。なぜ遠慮していたのか、なぜやめたのかは、まだ分からない。ただ、口上が「寛永元年から数えて」と起点を言葉にしている以上、いまの松竹の数え方は幕府の書付と同じだ。(2024年の公演は観ていないので、筋書の表紙の冠は確かめていない。公演ページと口上の記事による。)

碑を数えたら1基足りず、年を数えたら3年多かった——そして、いつの間にか合っていた。この町のまわりでは、数が合わないまま終わらない。

「無い」のか、「失われた」のか

最後に、宿題を整理しておく。

中村座の碑は、もともと建てられなかったのか、あったが失われたのか。区の名所リストに載らない以上、現時点ではどちらとも確認できていない。

ただ、この記事でやりたかったのは、碑の有無の詮索そのものではない。小屋の変遷を自分の手で整理することのほうだ。堺町・葺屋町・木挽町から猿若町へ。猿若町から鳥越・二長町・新富町へ。引っ越しの歴史をたどると、いまの東京のあちこちに点が打てる。碑があってもなくても、点は打てる。

分かっていることだけを並べる。嘉永6年の絵図に中村座は描かれている。現地に碑は3基あり、中村座のものは無い。明治の移転先の鳥越にあるのは手書きの看板だけ。そして2026年(令和8年)10月、中村座の名を継ぐ仮設劇場が、猿若町の目と鼻の先に立った。

碑が無いことと、記憶が無いことは、別の話だ。

それに、芝居小屋は過去のものでもない。いま東京で歌舞伎のかかる小屋を挙げると、歌舞伎座(木挽町——森田座の出発点だ)、新橋演舞場、明治座、正月の浅草公会堂(新春浅草歌舞伎)。そこに期間限定の平成中村座が加わる。碑を巡るのもいいが、生きている小屋に入るのが、いちばん確かな聖地巡礼だと思う。

そして四百年は、2024年(令和6年)にもう祝われていた。三年の遠慮は、知らないうちに終わっていた。次の猿若祭で冠に何と書かれるのか——確かめに行く用事は、それでもまだある。

猿若町の、碑のある通りは、この日が初めてだった。近くの大通りは何度も通っている。最近は裏浅草と呼ばれて飲食店でにぎわう区画もすぐそばだ。それでも碑の通りはそこから少し外れていて、用がなければなかなか行かない場所になっている。家からは自転車で15分。雨が降りそうだったので、急いで帰った。

いっぽうで、鳥越の漬物屋と二長町の市村座跡は、調べる前から生活の中にあった。引っ越してきたころ、Googleマップで近所の飲食店を探していて、味噌屋に歌舞伎小屋跡の看板があると知った。市村座跡も近い。当時はどっぷり歌舞伎にハマっていた時期だったから、レーダーに引っかかったのだと思う。三座という数え方までは知らなかった。それでも、この土地に歌舞伎が根を張っていることは分かった。いいところに越してきた、といまでも思っている。

用がなければ行かない通りと、毎日子どもを送る道と、長く通った道。書き終えてみると、三つとも同じ引っ越しの話の中にあった。自転車で十数分の円の内側に、猿若町と、中村座が移った鳥越と、市村座が移った二長町が入っている。

いまの東京のあちこちに点が打てる、と書いた。その点は、そのまま自分の生活圏に重なっていた。 松浦の殿様の屋敷跡も、歩いて行ける。 この日も、新しく分かったことがいくつもあった。普段の道を、歴史を数えながら歩ける。歌舞伎を追いかけている身には、これはやはり楽しい。打てる点は、まだいくらでもある。


出典・参考(23件)
  • 猿若町の成立・三座と人形浄瑠璃二座の配置・碑の名所リスト: 台東区 現地案内板「下町まちしるべ 旧町名由来案内(旧 浅草猿若町)」(2026-08-11 撮影・文字起こし)
  • 三座の移転年・移転理由: 台東区 現地案内板「山谷堀ヒストリカルツアー 浅草猿若町」(同上)。⚠️ 移転前の所在地は板どうしで記述が食い違う(本文参照)。替地・引移りの日付は『演劇大全』48頁で確定(下記)
  • 遠山景元の献策: 町名行灯の説明札(町会掲示とみられる。2026-08-11 撮影・文字起こし)+『演劇大全』48頁(下記)。⚠️ 一次史料(『市中取締類集』芝居所替之部)は写本で未校訂のため引用していない。本文では「明治39年刊の演劇研究書がそう書いている」までにとどめた
  • 碑の刻文・位置: 「江戸猿若町市村座跡」碑・「江戸猿若町守田座跡」碑・「浅草猿若町碑」の実見(2026-08-11 撮影、2026-09-13 再撮影・接写)。守田座跡碑の建立銘(昭和52年5月・大正十三年以来の三丁目住人)と猿若町碑の建立銘(昭和49年10月・新美武建之)、両碑の署名「蟹助書」は現地で確認。市村座跡碑の建立銘は未読で、台東区 TAITOおでかけナビ「江戸猿若町市村座跡碑」(確認日 2026-08-23)が昭和39年(1964)とする。GPS実測値は撮影時のEXIFによる
  • 今戸箕輪浅草絵図: 〔江戸切絵図〕今戸箕輪浅草絵図(戸松昌訓著、尾張屋清七、嘉永6年。年と著者は図の刊記「嘉永六丑年新鐫/戸松昌訓著」による。NDLの書誌は「景山致恭・戸松昌訓・井山能知編、嘉永2〜文久2年刊」)NDL pid/1286208(保護期間満了・2026-08-12 確認)。読み取りは research/shiryo/imado-minowa-asakusa-ezu_1853_asakusa-yoshiwara.md。⚠️ 三座の座名と並びは原本の画像で確認しているが、図全体の判読(周辺の町名・方位)はまだ突き合わせていない
  • 市村座の変遷(葺屋町→猿若町→二長町): 台東区教育委員会 現地案内板(下谷二長町・2026-07-05 撮影)。⚠️ この板は撤去された(2026-09-05 確認)。碑は工事の囲いの中に残っているが、板のほうは現地で確かめられない
  • 新富座の沿革・森田座の旧地(木挽町五丁目=現在の銀座六丁目)・「森」→「守」で読みは変わらないこと・大正12年の焼失: 中央区教育委員会 現地説明板「新富座跡」(令和2年8月設置・2026-08-09 撮影・文字起こし)。⚠️ 守田への改称年(安政5年)は『演劇大全』の明治元年と10年食い違う。本文では併記した
  • 中村座の鳥越移転: 『演劇大全』39頁(明治16年12月28日・浅草区西鳥越町2番地へ転座/明治18年の焼失後「鳥越座」/明治26年廃座。下記)+おかず横丁・郡司味噌漬物店の店主の手書き看板「旧浅草西鳥越 猿若座ー中村座ー鳥越座 跡」(2019-05-05 撮影)。看板は公的認定ではないので「看板にそう書かれている」として扱う
  • 出火の日時と火元の届け出(天保12年10月7日暁・中村座の楽屋から/火元表向は堺町水茶屋 櫻屋喜右衛門)、移転の日付の連鎖(10月20日普請差止 → 12月晦日転座申渡 → 翌2月8日 小出氏下屋敷地 → 4月 猿若町の町名)、引移りの手当金「五千五百両」、埋め立ての実際(姥ヶ池・地形甚だ低い・隅田川中洲の土・日々100人以上・翌5月成功)、一丁目の操座=大薩摩吉右衛門/二丁目=結城孫三郎、遠山の書付(218年/178年/182年)、中村座→鳥越座の改称(十四代目中村明石・明治16年10月相続): 『芝居双紙』第4編 東都劇場沿革誌 第4巻 上(関根只誠 著、演芸図書刊行会、大正6年=1917。扉に「關根只誠 著」。只誠は『演劇大全』の関根黙庵の父) NDL pid/953468(保護期間満了・2026-08-13 確認)。翻刻は research/shiryo/shibai-zoshi-4_1917_saruwakacho.md。翻刻は全文を原本の画像で校正している(訂正2件——1字の落字と、割注が付く語の取り違え)。⚠️ 『演劇大全』(子の黙庵)とは、書付の日付・敷地の坪数・転座の時期・出火の月が食い違う(本文参照)
  • 竹柴蟹助(1904〜89年・本名 古賀義一・歌舞伎座の座付狂言作者・勘亭流文字の第一人者): コトバンク「竹柴蟹助」(20世紀日本人名事典/デジタル版 日本人名大辞典+Plus。確認日 2026-08-23)。碑の署名「蟹助書」は猿若町碑の写真の拡大読み(運営者・2026-08-23)。守田座跡碑の署名は同じ三字に見えるが未確定
  • 凸版印刷の創業(明治33年1月17日・下谷区二長町1番地)と2023年10月の持株会社化・社名変更: TOPPANグループ 沿革(確認日 2026-08-12)
  • 平成中村座の始まり(2000年・浅草に仮設の芝居小屋): 松竹「江戸時代の芝居小屋『平成中村座』篇」(確認日 2026-08-13)。旗揚げが2000年11月・山谷堀・演目『隅田川続俤 法界坊』であることと建立年月(平成27年3月吉日・平成中村座発祥の地記念碑建立実行委員会)は、隅田公園の「平成中村座 発祥の地」碑と銘板の刻文による(2026-09-13 実見・撮影)。⚠️ ウェブの採録(発祥の地コレクション)は建立を2015年4月とするが、刻銘の3月を採った。「平成」という名の由来を明記したものは、松竹・中村屋の発信の中にまだ見つけられていない
  • 仮設劇場の工期と構造(着工2026年9月1日・完了予定9月24日・仮設興行場・鉄骨造・置き基礎・地上2階): 現地の「建築計画のお知らせ」(建築主 松竹株式会社・2026年5月20日設置・2026-09-13 撮影・文字起こし)
  • 平成中村座 十月大歌舞伎(2026-10-01〜25・浅草寺境内 本堂裏・演目): 歌舞伎美人 公演情報(確認日 2026-08-12)。浅草で4年ぶりであることは前回が2022年(令和4年)11月3〜27日の浅草寺境内(本堂裏)公演だったことによる(歌舞伎美人 公演情報)。第二部のチケットは松竹公式の多言語窓口 Shochiku Multilingual Online Ticket(Etix)で確保(2026-08-14)
  • 2024年(令和6年)2月の歌舞伎座「猿若祭二月大歌舞伎」が寛永元年起点で「江戸歌舞伎発祥から400年」を冠したこと、勘九郎の口上「今年は寛永元年から数えまして、400年の記念すべき年です」: 歌舞伎美人 公演情報/歌舞伎美人「猿若祭二月大歌舞伎」初日開幕/kabukidb show/3992(いずれも確認日 2026-08-23)。⚠️ この公演は観ておらず、筋書の表紙の冠は確かめていない
  • 『猿若江戸の初櫓』の筋・配役・初演(昭和62年1月「江戸歌舞伎三百六十年」)、「江戸歌舞伎三百九十年」の冠と三年の遠慮、境町の表記、中村座の定式幕(柿白黒)と歌舞伎座=守田座方式(萌黄柿黒)、江戸四座→三座(絵島生島事件)、中村座が一丁目である理由: 2017年2月 歌舞伎座『猿若祭二月大歌舞伎』筋書(現物・2026-08-13 照合)。配役は kabukidb show/720 とも一致。筋書は文章を転載していない。事実のみを取り出し、伝承として書かれているものは伝承として扱った。⚠️ 絵島生島事件の月(1月/5月)と生島の流刑地(三宅島/八丈島)は『演劇大全』と食い違うため、本文では断定していない
  • 三座の起立年(中村座=寛永元年2月・中の村/市村座=寛永11年2月・葺屋町/森田座=万治3年・木挽町)、中村座の移転の連鎖(中橋→禰宜町→上堺町→下堺町)、猿若町の地が「浅草山の宿・小出邸の沼地」を埋め立てたものであること、替地の日付(天保12年12月18日)・引移り(天保13年7月)・引移り手当、三座と丁目の対応、区割図の坪数と道幅、遠山左衛門尉の書付(丑十二月十日)と「実に遠山左衛門尉の賜である」の記述・成瀬吉右衛門の一説、書付が挙げる相続年数(218/178/182年)、山村座=木挽町六丁目と座名削除、中村座の明治の変遷(都座→猿若座→明治16年12月28日 西鳥越町2番地へ転座→明治18年焼失→鳥越座→明治26年廃座)、出火を11月7日・普請差止を11月20日とすること(47頁)、森田座→河原崎座(文化元年)→守田座(明治元年)→新富町(明治5年)→新富座(明治8年9月)、歌舞伎座=京橋区木挽町二丁目・明治22年4月起工: 『演劇大全』(関根黙庵 著、内外出版協会、明治39年=1906) NDL pid/991807(保護期間満了・2026-08-13 manifest で確認)。翻刻は research/shiryo/engeki-taizen_1906_saruwakacho.md(判読は運営者が原本で校正済み。2026-08-23 のレビューで「十二月二十八日」の行またぎの「二」を落としていたことが分かり訂正した)
  • 堺町の上下分割と抽籤(慶安4年5月・禰宜町から堺町へ/上堺町に村山座/下堺町は小芝居のみ/両町の願い出と官許/抽籤法で猿若座が下堺町へ/上堺町→葺屋町・下堺町→堺町/山村座=木挽町五丁目/天保年中まで約200年不変): 『日本演劇史』(伊原青々園、早稲田大学出版部、明治37年)NDL pid/991505(保護期間満了・2026-08-13 確認)70頁・52コマ(2026-08-14 原本で確認)
  • 三丁目の元地=木挽町五丁目・天保14年3月6日の地所引渡し・三座の敷地「弐百三十六坪五合」と間口十一間×裏行二十一間半・操座の「百二十七坪七合五勺」: 『猿若町書上并図 安政四年』NDL pid/2532964(保護期間満了・2026-08-13 確認)。⚠️ 写本(くずし字)でOCRのスニペットと部分の画像しか読めていない。校訂前なので、本文では坪数の算術の傍証にとどめ、単独の根拠にはしていない
  • 遠山の書付の原本系統: 『市中取締類集』[267] 芝居所替之部 NDL pid/2588459(保護期間満了・2026-08-13 確認)の11コマ。⚠️ 写本(くずし字)なので本記事では引用していない。当初は同じ「芝居所替之部」でも [268](pid/2588460)を原本系統と見ていたが、[268] は所替の実務(普請中の見廻り・普請完了の届)が中心で、天保12年12月の諮問と答申は [267] にあった
  • 江戸期の年数の数え方(安永2年の中村座の壽狂言の幟「寛永元年甲子二月十五日 男歌舞伎興行始 安永二年癸巳迄 百五十年」/文化15年5月 都座の「三百年の壽狂言」が町奉行所に差し止められ叱られ、口上の「百九十五年に相当候ニ付 二百年を祝し取越候て」と、結果として「二百年の壽と云丈けは相除き」)、市村座の元祖・市村宇左衛門が承応元年から寛文4年まで13ヶ年勤めたこと、村山座が「始て堺町ニて」始まったこと、絵島生島事件で残り三座も一旦停止され桟敷を削られたこと: 『芝居双紙』=『東都劇場沿革誌』第1〜5巻(第4巻は上下。関根只誠 著、演芸図書刊行会、大正5-6年)。NDLでは6件: 安永2年の幟は第2巻 pid/953466 53コマ/六代目勘三郎の日誌の抄録は同 19コマ/文化15年の壽狂言は第5巻 pid/953470 15コマ/市村宇左衛門の項は第4巻下 pid/953469 15コマ(いずれも保護期間満了・2026-08-14 確認)。翻刻は research/shiryo/shibai-zoshi-4_1917_saruwakacho.md。本文で使った箇所は原本の画像で校正している。
  • 考証の全体: research/notes/saruwakacho-sanza.md / 各座の年表: research/notes/shibaigoya-nenpyo.md
  • 現地案内板はいずれも全文を転載していない。事実の確認にのみ使い、記述は自分の言葉で書いている